2016年 03月 30日
最初の特高部長 |
宮本百合子の「ファシズムは生きている」に安倍源基のことがでてくる。
昭和のはじめ、日本の天皇制が侵略戦争をはじめたにつれて、治安維持法がしだいに殺人的な悪法となってゆきました。安倍源基は、警視庁の特高部長でした。それから人民抑圧の手柄によって、警視総監となり、内務大臣となり、さいごに企画院にゆきました。彼の出世の一段階ごとに治安維持法の血がこくしたたっています。小林多喜二を拷問で殺したのも、安倍源基とその部下の仕事です。岩田義道を殺したのも、上田茂樹をとうとう行方不明のままほうむり去ってしまったのも、彼の立身の一段でした。その頃非合法におかれていた共産党の中央委員のなかに、大泉兼蔵、小畑某というスパイをいれ、大森のギャング事件、川崎の暴力メーデーと、大衆から人民の党を嫌わせるような事件を挑発させたのも、安倍源基とその一味でした。スパイは、日本全国の党組織に入りこんでいて、金、女のことで世間の人が誰しもよくないことと思わずにいられないような行動をする一方、次から次へと組織を売りわたしてこわしてゆきました。治安維持法の犠牲者は、全国に二十万人ほどあります。その三分の二の人びとにとって、安倍源基の名は決して忘れられません。昭和七年から終戦まで、そして今日わたしが床の上でこの手紙をひとに書いてもらわなければならないような健康状態におかれるようになった十数年間のすべての治安維持法関係の書類のかげには、安倍源基の名が関係しています。
安倍源基について「赤旗」には以下のようにある。
1933年2月20日、日本共産党員の作家・小林多喜二が築地警察署で虐殺されました。多喜二と同じ警察署内での虐殺は80人、拷問による獄死が114人、病気による獄死は1503人にのぼります。
「スエヒロ」社長から店名を借り「スエヒロ」を開業、74歳で死亡するまでその経営にあたっていました。
なお、安倍源基は昭和を生き延び95歳の長寿を全うして平成元年に死去した。
昭和のはじめ、日本の天皇制が侵略戦争をはじめたにつれて、治安維持法がしだいに殺人的な悪法となってゆきました。安倍源基は、警視庁の特高部長でした。それから人民抑圧の手柄によって、警視総監となり、内務大臣となり、さいごに企画院にゆきました。彼の出世の一段階ごとに治安維持法の血がこくしたたっています。小林多喜二を拷問で殺したのも、安倍源基とその部下の仕事です。岩田義道を殺したのも、上田茂樹をとうとう行方不明のままほうむり去ってしまったのも、彼の立身の一段でした。その頃非合法におかれていた共産党の中央委員のなかに、大泉兼蔵、小畑某というスパイをいれ、大森のギャング事件、川崎の暴力メーデーと、大衆から人民の党を嫌わせるような事件を挑発させたのも、安倍源基とその一味でした。スパイは、日本全国の党組織に入りこんでいて、金、女のことで世間の人が誰しもよくないことと思わずにいられないような行動をする一方、次から次へと組織を売りわたしてこわしてゆきました。治安維持法の犠牲者は、全国に二十万人ほどあります。その三分の二の人びとにとって、安倍源基の名は決して忘れられません。昭和七年から終戦まで、そして今日わたしが床の上でこの手紙をひとに書いてもらわなければならないような健康状態におかれるようになった十数年間のすべての治安維持法関係の書類のかげには、安倍源基の名が関係しています。
安倍源基について「赤旗」には以下のようにある。
1933年2月20日、日本共産党員の作家・小林多喜二が築地警察署で虐殺されました。多喜二と同じ警察署内での虐殺は80人、拷問による獄死が114人、病気による獄死は1503人にのぼります。
これは戦前の法律でも殺人罪等にあたり、現在の法律では「特別公務員暴行陵虐罪」等も加わる重大な犯罪にあたります。しかし、特高の犯罪は、ほとんど何の処置も行われず、謝罪もありません。一方、特高はいったんは公職追放されますが、戦後は大手をふって政官財の各界にほとんどが復活しました。
多喜二虐殺時の主犯格は警視庁特高部長・安倍源基、その配下で、虐殺に直接手を下したのが毛利基特高課長、中川成夫、山県為三両警部らです。
安倍が警視庁特高部長や内務省警保局長だったときは、特高がもっとも残忍性をあらわにした時期で、33年には戦前でも最多の19人が拷問で虐殺されました。安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されますが、占領政策の転換で釈放され、その後、右翼の結集体である新日本協議会を結成、児玉誉士夫らとともにCIA協力メンバーと目されるなど戦後政治の“陰”の存在として生きのびました。
毛利は、32年警視庁特高課が部に昇格、安倍が部長になるとその下で特高課長となり、“共産党壊滅に功あり”として勲五等旭日章をもらい、異例の出世をとげます。終戦直後に埼玉県警察部長を退職しますが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえうけています
中川成夫は、高輪警察署長、築地署長と出世し、東京滝野川区長をつとめ、戦後46年に区長をやめた後、東映取締役興行部長となり
『警視庁物語』シリーズなどを全国上映。一方、北区で妻に幼稚園を経営させ、これを背景に64年には東京北区教育委員長になりました
岩田義道の虐殺に直接手を下したといわれている山県は43年に東京府会議員となり、戦後は丸の内署長時代に知りあったビフテキ店「スエヒロ」社長から店名を借り「スエヒロ」を開業、74歳で死亡するまでその経営にあたっていました。
なお、安倍源基は昭和を生き延び95歳の長寿を全うして平成元年に死去した。
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by rsc49839
| 2016-03-30 20:11
| 歴史など